基本理念
基本理念
未来に誇れる日本へ
世界有数の歴史があり、技術力があり、安定した社会があり、魅力的な食文化があり、活気あるスポーツやエンタメの世界がある、誇らしい日本。一方で、少子高齢化やエネルギー問題など解決すべき課題を多く抱え、解決のための時間的な余裕はほとんどありません。2023年、日本は岐路に立たされています。 今のこどもたちが大人になったとき、今の大人たちを誇りに思うかどうかは、2023年を生きる私たち、一人ひとりにかかっています。 私は確信します。輝かしい未来が必ず拓けると。
外交・安全保障
安全保障の目的は「国民の命と平和な暮らしを守り抜く」こと。それは、イデオロギーや観念論では実現できません。外交・安全保障には何よりも現実的な視点が必要なのです。
70年前に戦争に負けた我が国では、今でも「敗戦のトラウマ」が国民の頭の中にこびりついています。軍事や安全保障の話をすると、「戦争好き」のレッテルを張られてなかなか議論が深まりません。「日本が手を出すとまた戦争になる。だから、おとなしくしていれば良いのだ」と。
しかし、現実を直視すれば日本は核兵器と大量のミサイルで武装した国々に囲まれています。中でも、中国は毎年日本の4倍もの軍事費を使い、尖閣諸島に圧迫を加え、南シナ海では周辺諸国や我が国のシーレーンを脅かしています。米国でさえ日本や台湾を支援しようとしても、中国の高性能ミサイルによって簡単に近づくことができなくなりつつあります。
そのような中で、我が国の平和と安全を守るために何をすべきでしょうか?
第一に、米軍が引き続きインド太平洋地域での影響力を維持できるよう、日本が率先して支えていく必要があります。例えば、宇宙監視やミサイル防衛、さらには電磁波や無人システムなど先端技術分野の研究開発で日米協力の強化を急がなければなりません。
第二は、仲間を増やすことです。かつては日米、米韓、米豪など米国を中心とする二国間同盟がそれぞれ「線」で結ばれているだけでしたが、これからは日米にオーストラリアやインドを加えた4か国が「面」で地域の平和と安全を守って行きます。その「面」は、自由と民主主義を共通項としてASEAN諸国や台湾、韓国、モンゴル、さらには南太平洋諸国へ拡大し、国際秩序を安定させることに役立つはずです。
そして、第三。これが最も大事なポイントですが、「自分の国は自分で守る」気概と能力を持つことです。尖閣諸島への中国の圧迫は深刻ですが、米国の大統領が代わるたびに尖閣諸島に安保条約第5条が適用されるかどうかを尋ねるような依存体質から一日も早く卒業すべきです。まずは私たちが自分自身で自分の国を守ろうとしなければ、いざという時に駆けつけてくれる国があるでしょうか。逆の立場で考えれば簡単にわかることです。
たとえば、コロナ禍で米空母セオドア・ルーズヴェルトにクラスターが発生し、2か月間グアムに釘付けとなってしまった時、オーストラリアが真っ先にフリゲート艦を派遣して米軍の強襲揚陸艦を支援し、抑止力の低下を防ぎました。日本の自衛隊25万人に対し、オーストラリア軍はたったの5万人です。要は地域の安全保障に対するコミットメント、すなわち、我が国の「本気」が試されているのです。
明治の啓蒙家・福沢諭吉は、「一身独立して一国独立す」、また「独立の気力なくして国を思うこと深切ならず」と言いました。日本国の独立のために、私たち一人一人が独立の気概を持ち、国際社会をリードする国を目指そうではありませんか。
こども政策
こどもはこの国の未来そのものです。どんな家庭に生まれ育ったとしても、一人のこどもも取り残さない、置き去りにしない。これが私の政治家としての確固たる信念です。
我が国の出生数は年々減少し、昨年ついに80万人を割り込みました。しかし、少子化を嘆く前にまず生まれてきた尊い命を守り、無限の可能性を持ったこども達を大切に育むことこそ私たち大人の責務ではないでしょうか。
この10年、私は「こども子育て政策」と真剣に向き合ってきました。
出生数の減少とともに、こども達を取り巻く環境は悪化の一途をたどっています。貧困問題や「いじめ」、不登校、発達障害や学力低下など枚挙にいとまがありません。残念ながら、児童虐待(死)の事件が報道されない日はないと言っていいでしょう。
なぜ、親がこどもに暴力をふるい、命まで奪ってしまうのでしょうか。もちろん理由は様々ですが、子育て家族が何らかの形で地域社会と繋がっていれば「虐待の過激化」を防ぐことはできたのではないでしょうか。超党派で立ち上げた「虐待からこどもの命を守る議員の会」の仲間と共に、事件が起こるたびに専門家を交えて議論し、私ははっきりと確信しました。
児童相談所の対応が悪いとか、学校や警察との連携ができていないとか、いや、児童相談所や一時保護所の職員は懸命に頑張っているのにマンパワーが圧倒的に不足している、などなど。事件が起きるたびに、児童相談所の強化や、里親や特別養子縁組などの制度の普及に努めてきましたが、それらの対策はすべて“結果”に対する事後的なものです。
物事には原因があって結果があります。虐待死が結果だとすれば、その“原因”を解決しない限り、児童虐待を根絶することはできません。こどもに暴力をふるいたい、あるいはネグレクトしたい、と願う親は一人もいないはずです。育児に追い詰められた親御さんは、総じて地域社会から孤立する傾向があります。孤立ゆえに、必要な時に必要な支援や助言を得られないケースがほとんどなのです。
つまり、産前産後の最も困難な時期に、「母親以外の誰か」が親身になって育児に関わってあげられたら、幼児期の虐待は防ぐことができると確信します。その意味で、「子育てしやすい国」世界一のフィンランドにあるネウボラ制度には、私たちが見習うべき点が多々あります。フィンランドの子育て家庭の98%が利用するネウボラは、かかりつけの保健師さんが、妊娠から出産を経て小学校に上がるまでの約7年間、子育て家族に寄り添って早期にリスクを発見し、専門的な支援につなげる仕組みです。
「三つ子の魂百まで」で、産前産後から就学前というこどもの成育にとって最も大事な時期、裏を返せば親御さんにとっては最も不安定な時期に、的確な子育て支援を集中できるような仕組みを地域につくり上げることが重要なのです。これができれば、児童相談所の拡充や、里親や養子縁組を促進するなど、虐待結果への対処に躍起になる必要もなくなるのではないでしょうか。
もちろん、虐待は子育て家庭全体から見れば5-10%程度の限定的な事象といえます。であれば、こどもの成育の早期に、この5-10%の孤立しがちな家庭への継続的な支援に政策資源を集中させることにより、今日のような虐待事件は劇的に減らすことができるはずです。
これまでは、幼稚園は文科省で保育園は厚労省、出産までは医療、出産後は母子保健という福祉、就学からは教育、などといった役所の縦割り行政や既得権益が邪魔して一気通貫の仕組みとしてうまく機能しているとは言えませんでした。
この度ようやく、一元的にこどもと子育て家庭に関わる諸問題を所管する「子ども家庭庁」が創設されました。この司令塔の下、こどもの笑顔がど真ん中の社会をつくってまいります。
すべては、将来世代のために。
環境・技術
政府は、2050年カーボン・ニュートラルを宣言しました。誰も30年後の世界を見通すことはできませんが、「脱炭素」というからには、ガソリンや灯油、ガスのない世界をつくるということを意味します。身の回りの多くの石油製品(たとえばプラスチック、化学繊維、洗剤、医薬品など)は、そのままでは存在できなくなるのです。
つまり、すべての産業において、製造からサービスの在り方までのあらゆる局面で、今後30年のうちに、19世紀の「産業革命」以来の大激変が私たちの社会を一新することになります。
社会のありとあらゆる分野が極限まで「電化」され、その電気は化石燃料以外の方法(たとえば、太陽光や風力、地熱など)でつくられます。排出された二酸化炭素から化学製品をつくったり、カーボン・フリーの水素エネルギーを社会や産業のインフラとしていくなど、社会システムや産業構造、人々のライフスタイルを一からつくり直すことを意味します。それは、単にガソリン車をEV(電気自動車)に乗り換えるというだけに止まりません。
化石由来のガソリンをカーボン・フリーの合成燃料(e-fuel)に置き換えれば、日本が世界に誇るエンジン車技術はそのまま活かせるのです。
2050年カーボン・ニュートラルは、私たちがいくつものイノベーションを重ねていく必要のある極めて困難な課題ですが、重要なことは世界中で同じ目標に向かって真剣な取り組みが既に始まっているということです。ヨーロッパをはじめ各国の政府や企業は、カーボン・ニュートラルを新たな「国富」につなげようと、次世代の産業戦略として国を挙げて積極的に取り組んでいます。
したがって、私たちが怯んだり躊躇ったりしていると、日本はこの激しい国際競争に敗れ、優位性を失うどころか完璧に取り残されてしまいます。
今、私たちは30年前でいえば「スーパーコンピューター」に匹敵するような能力を持ったスマホを一人ひとりが持ち、世界中とつがっています。カーボン・ニュートラルという「新たな産業革命」は、これまで我が国が培ってきた世界に誇る革新的な技術力で十分戦えます。
こうした「グリーン戦略」を支えるのは、社会や企業の強力なデジタル化です。
「グリーン」と「デジタル」は車の両輪であり、これらが融合していく社会を一刻も早く実現していく必要があります。例えば、車やドローン、航空機、鉄道などがデジタル化・電化され、自動運行・自動制御されることは、幅広く国民の利便性を高めるだけでなく、エネルギーの効率化・低炭素化をも実現することになります。さらには、こうしたシステム全体を海外に展開していくことは新たな「国富」につながります。こうした未来技術の恩恵が社会や生活の隅々にまで広がっていくのです。
政治の役割は、この国を挙げてのチャレンジに企業や国民が取り組みやすい環境を整備し、世界中から英知を集められるあらゆる条件を整えることです。新たな挑戦を試みる人々を最大限支援し、将来世代に夢と希望を掴み取ってもらうこと。
これぞ、まさしく私の目指す「未来に誇れる日本」の姿です。
経済政策
経済政策の目的は、一に雇用、二に雇用、三四がなくて五に雇用です。
その意味で、400万人もの雇用を増やしたアベノミクスは間違っていなかったと断言できます。アベノミクスは3本の矢でたとえられました。異次元の金融緩和と機動的な財政出動、そして成長戦略。3本目の矢が飛ばなかったと批判されましたが、そこは政府が打ち出した「デジタル化の推進」と「脱炭素社会の実現」という二大目標に向けて官民一体で取り組むことによって、間違いなく結果を出すことができると確信します。10年後の日本社会や私たちの生活様式、さらには産業構造までも、大きく様変わりしていることでしょう。
しかし、いま必要なのは雇用の拡大です。雇用とは国民生活そのものだからです。デフレ脱却をめざしたアベノミクスは、大胆な金融緩和で雇用を拡大しました。「え?金融政策で雇用が拡大するの?」と、疑問を持つ方もおられるかもしれません。ここが政策のポイントなので簡単に説明させてください。
デフレというのは、長期にわたり物価の下落が続く経済状態をいいます。物価とは、モノの金銭上の価値ですから、おカネの量が増えればおカネの価値は下がり、逆にモノの価格は上がりますよね。そこで、アベノミクスではインフレ目標を2%に設定して、日銀による金融緩和でおカネの量を持続的に増やし実質金利を大幅に引き下げて、人々にモノの価格(つまり物価)がだんだんと上がっていくという「期待」を抱かせることに成功しました。
その結果、それまではデフレ下で物価が下がっていくことを織り込んで消費や投資を控えてきた人々が、一斉に「インフレ期待」に転換して需要や生産が増大したのです。需要や生産が増えれば、当然雇用も拡大します。ですから、アベノミクスは400万人もの雇用を増やすことができたのです。
「いよいよデフレ脱却か!」というところで、2019年10月に消費税を上げてしまいました。そのためGDPは7%以上も落ち込んでしまいました。そこに「新型コロナ」が直撃してしまい、総需要が60兆円も吹き飛んでしまいました。せっかく積み上げてきたアベノミクスの成果が、崩壊の危機に直面しました。
ここから巻き返していくために、大胆な金融緩和を続けながら、政府は財政のエンジンを最大限ふかし、総額100兆円にのぼるGDPギャップを埋めて緊急対応したのです。このギャップを埋める責任は、民間ではなく政府にあるからです。しかし、「財政出動するにも、財源がない!」「これ以上財政赤字を増やすと将来にツケを回すことになる!」との懸念の声が聞かれます。じっさい、私も「将来の財政を疲弊させるとはけしからん!」と財界の大物に怒られたこともあります。でも、将来の財政の疲弊を心配するより、今の国民生活の疲弊を心配する方が先決ではないですか。
故安倍晋三総理が繰り返し強調されたように、「政府・日銀連合軍」で、国民生活の下支えのための財政出動の原資として、政府が国債を発行し日銀がそれを購入する。どれだけ国債を発行しても、政府と日銀を合わせた「統合政府」のバランスシートで見れば、政府の負債は増えても、国債を買った日銀の資産が増えますから、統合政府の純債務残高は変わりません。したがって、財政負担はゼロなのです。あくまでインフレ目標2%の範囲内ですから、それ以上財政規律が緩むことも心配ありません。
いかがでしょうか?コロナ禍を克服した先進国の政府は、皆このようにして国民生活や企業活動を必死で支えてきたのです。ですから、厳しい経済状況の中で、将来の財政赤字を気にするのは、まさしく本末転倒です。
私、長島昭久は、今こそ国民の生活第一の「経世済民」政策を推進してデフレ脱却を完遂し、日本経済と国民の暮らしを再生してまいります。
憲法改正
現行憲法は、施行から70年以上が経過しましたが、一文字も改正されていません。諸外国と比較するまでもなく、これは異常なことです。
当然のことながら、長い年月を経て日本の国力も、人々のライフスタイルも、社会課題も大きく変わっています。ですから、憲法も時代と共にアップデートする必要があることは、一部のイデオロギーに凝り固まった人々以外は、誰も否定しないでしょう。
よく「公務員の憲法尊重擁護義務」を明記する憲法第99条を持ち出して、「国会議員(公務員)のくせに憲法改正を論ずるのはけしからん!」「憲法改正は立憲主義に反する!」などと言う方がいますが、これは大きな誤解です。
何が何でも憲法改正を認めない、あるいは改正の議論を行うことすら封じようとする姿勢は、じつは「護憲」でも「立憲的」でもありません。なぜなら、憲法第96条には「憲法改正手続き」が明記されており、憲法改正という選択肢がちゃんと織り込まれているからです。したがって、立憲主義を守るというのであれば、この改正条項を含む憲法全体を尊重しなければなりません。
時代の変化に合わせて憲法をアップデートする。これすなわち立憲主義であり、真の「憲法保障」なのです。
この点を確認した上で、多岐にわたる改正項目の中から「緊急事態条項」を明記する改正の提案をしたいと思います。
新型コロナ感染拡大に直面し、「新型インフルエンザ特措法」の改正が何度も議論されてきました。先の通常国会で法改正がなされた時には、野党側から「緊急事態宣言」を行う際に国会の事前承認を求めるべきではないか、との至極まっとうな提案がありました。なぜかこの提案はその後うやむやになってしまいましたが、私はまさしく立憲主義の観点から、「営業の自由」などの私権の制限を伴う緊急事態宣言に関しては、国民の代表である国会の厳格なコントロールが必要だったと思っています。
さらに感染が深刻化した場合には、罰則などの強制力を伴った私権の制限が必要となったでしょう。コロナ禍去って、「熱さ忘れる」では無責任です。ただし、その際、その私権の制限の根拠をどこに求めるべきか、ということはきわめて重要な問題です。
現行憲法でも「公共の福祉」に基づいて一定の人権制約ができるということになってはいますが、私は何でもかんでも公共の福祉ですませるのは拡大解釈される可能性があり、非常に危険だと思っています。やはり私権制限を伴う緊急事態措置を実施するには、憲法の条文にその根拠を明記するべきだと考えます。
他にも、憲法改正の論点はいくつもあります。たとえば、①現実とかけ離れた憲法第9条2項の「陸海空軍その他の戦力を保持しない」「交戦権を認めない」などを改正する、②二院制の在り方を見直して、参議院は各分野の専門家や地方自治体の代表者で構成し、衆議院とは別の角度から長期戦略を策定するような機能を持たせる、③より魅力ある地方を作るための道州制の導入など。
激変する内外の諸情勢に効果的に対応するべく、「国のかたち」を大胆に変える国民的な議論の先頭に立ってまいります。