長島昭久の歩み
長島昭久の歩み
「未来に誇れる日本」へ。私がやらずに誰がやる!!
「未来に誇れる日本」へ。
私がやらずに誰がやる!!
ー誕生から渡米ー
ふたつの原点
60年余の半生を振り返ってみて、「捨てる神あれば、拾う神あり」という言葉を何度嚙み締めたことか。
しかしながら、そんな混沌とした世界にあって、道標となるものがあります。それは、政治家としての原点です。私の社会人としてのキャリアは困難な決断の連続でしたが、その都度、この原点に立ち返って、考え抜き、行動してきました。そんな私の原点は、二つあります。
まず、慶應義塾で叩き込まれた「福沢精神」です。これ抜きには、政治家としての長島昭久は語れません。幼稚舎(小学校)から大学院博士課程までの実に23年間を、この学塾で過ごしました。
慶應義塾を貫く精神的バックボーンは、塾祖福沢諭吉の箴言「独立自尊」に集約されます。
「他に寄りすがることなく、自尊は他尊(他人を尊重すること)に通ず」と教えられました。この精神は、自身の原点であるだけでなく、国家の理念にも通ずると思っています。
ちなみに、大学時代は、「応援指導部」に所属していました。友人の多くが、楽しそうに開放的な青春を謳歌する中、私たちはビシっと学ランを着て、厳しい規律と練習漬けの日々を過ごしていました!
そしてもう一つ、忘れられない経験があります。高校生活最後の昭和54年(1979年)のことです。その年は、2月にイラン革命、中越戦争、そして、12月にはソ連のアフガニスタン侵攻と、国際社会を揺るがす大事件が次から次へと勃発しました。しかも、第二次オイル・ショックもあり、日本経済も大きな打撃を受けました。そんな激動のただ中にあって、私が目にしたのは、党内の派閥抗争に明け暮れる日本の政治家たちの姿でした。
あのハマコー先生が党本部のバリケードを撤去しながら記者たちにすごむ映像を観た方も多いでしょう。愕然とさせられました。日本にも、国際政治をリードできるような政治家が必要だと、確信しました。本気で政治家を志したのは、この時です。
順風満帆だった政治への道……のはずが!?
本気で政治家になるには、何をすべきか……?大学を卒業するにあたり、次の進路は悩みに悩みましたが、法学部法律学科から政治学科へ学士入学し、その後、大学院へ進むことにしました。国会議員になろうというのだから、国家の基本法である憲法を、徹底的に学ぶべし!と考えたのです。
期待通り、大学院では、著名な教授たちに、憲法や国際法のなんたるかを叩き込んでいただきました。その傍ら、TA(ティーチング・アシスタント)として、後輩の指導にも力を入れました。その後、修士論文も書き上げ、都内の短大で教鞭を執るようになります。私は、順調に成長できていると手応えを感じていました。
そんな折の平成2年(1990年)、28歳の時のことです。大学院博士課程在学中に、旧友の石原良純くんに誘われ、兄である石原伸晃さんの初めての選挙を手伝うことになりました。伸晃さんは、親父(石原慎太郎)の七光り、叔父さん(石原裕次郎)の十四光りなどと盛んにマスコミから揶揄されました。しかし、実際は、親の地盤を引き継ぐ世襲ではなく、別の選挙区でゼロから挑戦する困難な道を選んだ伸晃さんの心意気に感じて、選挙戦を全力で戦いました。
そして、伸晃さんは見事に当選!
私は、石原代議士の公設第一秘書に就任したのです。
必死で勉強して学業を修め、いよいよ、長年の目標だった政治の場に進出です!
私は、やる気と情熱に満ち満ちていました。石原事務所の地元責任者として、自分なりに一生懸命働きました。ゼロからの後援会作りなど、地道ながら、とても大切な成果を着々とあげていきました。政治のリアルを知る上で、かけがえのない経験でした。
ただ、当時の私にとって、その「リアル」は、あまりにも重かった。
一生懸命働いたからこそですが、政治の可能性とともに、その複雑怪奇な力学と、社会を変えるのに必要な力の巨大さを、同時に痛感してしまったのです。今の自分では、たとえ議員になったとしても、世の中を変えられないかもしれない……。そんな挫折感に、押し潰されそうになりました。
裸一貫での渡米を決意!
そんな時、高校からの友人である伊藤達也くん(現衆議院議員)から連絡があり、国政選挙に出るから、長島も一緒に出ないかと誘われたのです。
文字通り、一晩かけて口説かれます。もちろん、私は、政治家になりたい。その為にたくさん勉強もしたし、秘書としても必死に働いてきました。経験も積みました。でも、だからこそ痛感してしまった政治のリアル。
今の自分が時の勢い(当時は凄まじい「日本新党ブーム」でした)に乗って選挙に通ったとして、本当に、自分が志したような本物の政治家になれるのだろうか?国際政治をリードできる、真のリーダーになれるのだろうか……?政治家になるのは、手段であって、目的ではないはずだ。
この時、心身ともに準備万端な達ちゃん(伊藤達也代議士)とは違い、私には、今すぐ選挙に打って出るというところまで機が熟しているようには、どうしても思えませんでした。有難い誘いでしたが、まさに断腸の思いで断ります。
この出来事が、決定的でした。達ちゃんのせっかくの誘いに応えられなかった自分の不甲斐なさ、そして、いろいろな機会を与えてくれた石原代議士には心から感謝しているものの、このまま石原秘書として政治の日常に埋没してもいいものかという危機感が、急速に膨らんできました。
悩みに悩みましたが、例えどんな遠回りになろうとも、私は、私が志した政治家、それも単なる政治家じゃない、「国際政治をリードできる政治家」になりたい。本当に、日本を変えられる政治家になりたい。その為に、ゼロからやり直そう!そう決意しました。
そこで、以前から憧れはしていたものの、半ば諦めかけていた国際政治の本場アメリカ留学に打って出ることにしました。平成5年(1993年)、31歳からの武者修行です!
でも、資金は……!?
と、覚悟を決めたはよいものの、大きな問題がありました。そう、お金です!!私も私の実家も決して裕福ではなく、とてもではありませんが、この時に留学費用を工面する余裕は、どこの袖をふってもありませんでした。
こんな無謀な計画を聞いて誰よりも仰天したのは、渡米決断のわずか5ヶ月前に結婚したばかりの妻です。ひょっとしたら、新婚早々、ここで三行半を突きつけられてしまうかもしれない……。そんな不安でいっぱいでしたが、妻は、限りなく寛容でありました。
気持ちよく私を米国に送り出してくれたばかりか、日本で働いて、仕送りまでしてくれました。米国での生活は切り詰めなければなりませんでしたが、おかげで、学業に専念することができました。
[2]武者修行 編 に続きます!
ー渡米から初当選までー
どん底からの再スタート……!
志に燃えて、意気揚々と渡米したはいいものの、早速大きな壁にぶち当たりました。
英語です……!
大学院への入学を目指していたのですが、英語の点数が低すぎてそもそも受験資格がありませんでした。よくそんな状態で渡米したなと言われるのですが、生まれながらに楽観主義的な私は、なんとかなるだろうと思っていました……(汗)
レーガン政権で国防総省の日本部長を務めていたヴァンダービルト大学(テネシー州ナッシュヴィル)ジェームズ・アワー教授の門を叩き、寛容にも客員研究員として採用していただきました。そこで、大学の講義を受講しながら、語学学校に通いTOEFLの受験勉強に明け暮れました。
しかし、点数が伸びない……!必死に勉強しているのに、私の目指す大学院に入学するのに必要な基準になかなか達しません。そもそもの渡米の目的である大学院に入ることすら叶わないとは……。情けないやら悔しいやらで、この期間は本当に辛かったのです。まさに、延々と続くトンネルの中を彷徨うがごとく。でも、アワー先生や周囲の人々の温かい励ましに支えられ、必死で努力を続けました。
そんな中で、妻にアメリカにきてもらいます。そこで、長女が生まれました。今振り返ってみれば、このどん底で長女が生まれたこの瞬間が、私の半生でもっとも嬉しく、勇気づけられた出来事でした。落ち込んでなんていられない。もう、やるしかない!!
そして渡米から1年半後、ついに、TOEFLで大学院の受験資格に達する点数を獲得!!その後、第一志望だったジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院(SAIS)の入学許可が下り、ワシントンDCに移りました。
就職、そして飛躍!!
大学院を卒業した後は、アメリカで最も由緒あるシンクタンク「外交問題評議会」に研究員として就職しました。日本人として初めてのことでした!まぁ、華々しい話のようですが、やっとこさこの職に漕ぎつけた時の預金残高はたったの600ドル!生活の内実は、本当にギリギリでした。それに嫌味ひとつ言わず付き合ってくれた妻には、本当に感謝であります。この時、次女も生まれて、ますます明るい展望が開けてきました!ここまで、長かった……!涙
この年、さらに嬉しいことがありました。『読売新聞』の懸賞論文で、論壇新人賞の最優秀賞を受賞したのです。
渡米してから、自分なりに必死に努力していましたし、いささか成長もしました。ただ、目に見える成果を示すことができておらず、もどかしい思いをしていました。でもこの受賞で、それがようやく形になった気がしました。妻をはじめ、物心両面で留学を応援してくれた祖父母が喜んでくれたことが、何より嬉しかったです。
7年半に渡るアメリカ留学の前半は、まさに裸一貫。志一つを身にまとって日々格闘しているような状態でした。しかし終盤には、胸を張って外交・安全保障の専門家と言える知識や実績を身に着けることができ、さらに、生涯の財産である多くの知己を得ました。
留学生活の前半にお世話になったジェームズ・アワー教授、大学院でご指導いただいたズビグニュー・ブレジンスキー教授(カーター政権の国家安全保障担当の大統領補佐官)、就職の際に引っ張ってくれたマイケル・グリーン氏(後にブッシュ政権のアジア担当の大統領補佐官)、さらには、公私にお世話になったリチャード・アーミテイジ氏(後の国務副長官)やジョセフ・ナイ教授(当時、クリントン政権の国防次官補)、ジョン・ハムレ氏、カート・キャンベル氏(後の国務副長官)など、世界的に著名な外交や安全保障の専門家との深い交流は得難いもので、このこと一つをとっても、思い切って渡米した甲斐がありました。
ただ、私がアメリカに留学したのは、「国際政治をリードする政治家」になる為です。勉強している間も、就職してからも、アメリカから我が国を注視していました。
ITバブルで浮かれるアメリカとは対照的に、失われた20年の真っ最中である日本は、国際社会での存在感や影響力が日に日に陰っていました。また、アメリカには日本の政治家や政府高官が頻繁に訪れ、その場にアメリカ側の一員として陪席することも多かったのですが、安全保障という肝心な部分はアメリカに依存するという戦後体制がその当時でも色濃く残っていることを、たびたび痛感しました。祖国の衰退に、居ても立ってもいられない気分でした。
今から振り返れば大それた考えですが、「このままじゃマズい。早く日本に帰って自分が何とかしないと……!」と思い詰めることも多くなり、この頃から真剣に、帰国のタイミングを模索し始めます。
そんなある日のこと。シンクタンクの仕事でアジアを歴訪し、日本に立ち寄った際、ホテルに一通のメモが届きました。
「補欠選挙」に伴う民主党からの出馬要請でした。
そして、賽は投げられた
どの政党から出馬するかは、政治家にとって重要な岐路です。この時の私は、次の理由から、民主党でいくことを決意します。
私の政策理念は保守的なものでしたが、日本の政治を変えようとしているチャレンジャーが、与党から出るのには違和感がありました。自民・非自民の良し悪しではなく、日本にアメリカのような二大政党制を根付かせ、競争し切磋琢磨する中で健全かつバランスの取れた政治を実現させるというのも、私の大切な政治信念でした。
当時の民主党には、前原さんや松沢さん(後に神奈川県知事から参議院)のような保守派もたくさんいた。何より、政治体制や文化的背景を超えて各国の国益がリアルにぶつかり合う国際政治において、「外交や安全保障には与党も野党もない」という思いがありました。
伊藤達也くんからの出馬の誘いを断るという敗北感を味わってから、8年。今や、政治家として皆さまのお役に立てるだけの資質も整えたつもりですし、気力も充実しています。
とはいえ、この補欠選挙は簡単ではありません。なんと、選挙までたったの1ヶ月程しかないとのこと。これでは、十分な準備さえできるかどうかわかりません。
が、とにかく足を前に踏み出さないことには、何も始まりません。結果はどうあれ、やるなら、今しかない。
いよいよ、賽が投げられたのです!!
アメリカ生活を整理する時間もありませんので、家族をアメリカに残し、急ぎ単身帰国して補欠選挙に臨みました。
しかし、結果はダブルスコアの惨敗でした……!!涙
その後、アメリカでの仕事や生活の後片付けをして、家族とともに帰国しました。もちろん、この選挙で当選できるとは思っていませんでしたが、半ば放心状態で、この時は、妻と娘二人とどうやって帰ったのかも覚えていません……。
再び、ゼロからのスタート……!!
ここから、次の選挙に向けての浪人生活が始まりました。またもや、ゼロからのスタートです!!(涙)
でも、私の気力は、些かも衰えていませんでした。ゼロからのスタートには違いないですが、この時の私には、専門的な知識や有力や人脈など、アメリカ生活で築き上げてきた財産があります。生活にしても、幸いなことに、アメリカ滞在時に東京財団から研究プロジェクトを3年契約でいただいていたので、なんとかなりそうでした。その代わり、研究は続けねばなりません。
石原伸晃秘書時代の経験で、どうやって地盤を築けばいいかなども分かっていましたので、昼は体を使って選挙区を回り、夜は頭を使って東京財団の委託研究をするという毎日でした。
もう本当に正直なところ、とにかく時間が足りなく、事務所運営や子育ては妻に任せっきりでした。引き続き、妻には大きな負担をかけてしまいました。現在の私の二大優先政策の一つである「こども政策」は、当時の妻や娘に対する罪滅ぼしという意味合いもあるかもしれません。
毎朝駅頭に立ち、戸別訪問やタウンミーティングを繰り返す中で、徐々に地域に浸透し、次第に支援者の輪も広がりました。いつ衆議院の解散があるかもわからない、ゴールの見えない辛い日々ではありましたが、大変ではあっても、日々手応えを感じる充実した期間でした。
そして、丸3年。平成15年(2003年)11月、41才でついに衆議院に初当選します。高校生の時に政治家を目指し、紆余曲折を経ながら約四半世紀、やっと夢が結実した瞬間でした。
同時に、突如落下傘で舞い降りてきた私を受け入れて、信じて、ゼロから応援し続けてくださった後援会の皆さんの想いに報いることができた瞬間でもあり、弾けるほど嬉しかったことを覚えています。
しかし、当選は終わりではなく始まりです。今一度ふんどしを締め直し、これからは腰を据えて、日本をよりよくしていく大仕事に取り掛からなくてはなりません。
私は生来、楽天的な性格です。これからも今までと同じようにコツコツと前進していけば、必ず夢はかなうと信じてやみません。そういう意味では腹は座っていました。
とはいえ、政治の世界はなかなかに複雑であり、試行錯誤はこれからも続くことになります……!
[3]政権交代 編 に続きます!
ー初当選から離党までー
日本政府の外交安保をリードする存在に!
高校生の最後の年、昭和54年(1979年)。激動の国際社会にあって、党内抗争に明け暮れる日本の政治家をみて、愕然としました。国際政治をリードする政治家に、自分がならなければいけない、と決心したのです。
あれから、四半世紀。私はついに国政の舞台に立つこととなりました。そして、アメリカでの7年に及ぶ武者修行を経て、外交・安全保障政策のプロフェッショナルとして、先輩議員からも一目置かれる存在になっていました。新人ながら、党内の外交安保政策をリードしました。
衆議院議員として当選して間もなく、民主党「次の内閣」でネクスト防衛庁長官へ。衆議院でも、安全保障委員会の筆頭理事に就任。国会の最前線で小泉政権に政策論争を挑みました。
そして、平成21年(2009年)9月。47才の時です。悲願の政権交代が実現します。いよいよ与党の一員として、党ではなく、我が国の政権中枢で外交安保政策の舵取りをする時がきたのです。
鳩山内閣では防衛大臣政務官に就任。また、続く野田内閣では、外交安保を担当する総理大臣補佐官を務めました。
総理補佐官の職場は、首相官邸です。
初出勤の日、朝日に照らされ輝きを放つ首相官邸の門をくぐる時の感慨は忘れられません。約30年前に外交・安全保障を志して以来、ついに、時の総理大臣にアドバイスする立場に就いたのです。そして、日本でも二大政党制が実現しかかっていることを実感し、全身が粟立つような思いに包まれました。
とはいっても、仕事はかつてなくハードでした。なにせ、国益をかけた真剣勝負が日常です。幾度となく首脳会談にも陪席し、一国の指導者と渡り合う日本国総理大臣の一挙手一投足を至近距離で凝視しました。この時の経験が、私を政治家として更に成長させてくれました。
第三次改造内閣では、ついに防衛副大臣に就任。当時の防衛大臣は、長年の恩師である森本敏先生でした。やり甲斐は、これ以上ないほどです。我が国にとって積年の課題であった、日米防衛協力のガイドライン見直しに着手しました。
苦渋の決断、離党
しかしその後、民主党は選挙で大敗し、政権を再び自民党へ明け渡すことになります。なぜ、こんなことになってしまったのか。ここでは、語りません。が、しかし、筆舌に尽くし難い思いでした。
それでも、いつか必ず与党に返り咲き、政府の一員として日本の外交安保政策をリードしてみせる! その気概は、全く失っていませんでした。政権時代の経験を活かし、引き続き「外交・安全保障に与党も野党もなし、あるのは国益のみ」という信念のもと、建設的な政策提言に徹します。遠回りなようですが、これが、政権交代、延いてはその後の政権運営に必要不可欠だと信じていたからです。
二大政党制を根付かせるためには、野党は単に政権を批判するだけでなく、責任感とリアリティをもって「我々であればこうする」という将来像を示し続けなければなりません。野党であっても「責任政党」だということを忘れてはならないはずです。
しかしここで、所属する民進党(民主党から民進党に党名変更)の方針と、決定的に食い違ってしまいます。なんと、共産党との選挙共闘の方針が示されたのです。これは、責任政党から「万年野党」への変化を意味していました(そして、誠に残念ながら、実際にそうなってしまいました)。
何がなんでも、とにかく政府を批判するのはわかりやすくはありますし、ある一定の支持を獲得するには間違いなく効果的でしょう。しかしそれでは、良識ある大多数の日本国民の支持を失うことになります。この路線なら、選挙にはある程度勝てるかもしれない。政治家の生存戦略としては、合理的かもしれない。しかし、賢明なる日本の有権者の信頼は得られず政権は取れないだろうし、仮に取れても、そこからまたドタバタが始まるでしょう。そんな無責任なことでいいのか!
党がこのような状態に陥り、私自身は政治家として如何にすべきか。悩み抜きました。しかし、私の政治家としての原点に立ち返ってみると、答えは明白でした。
私は、単に政治家でいたいわけではありません。「国際政治をリードできる政治家」になりたいのです。したがって、ここに留まっているわけには、いきませんでした。
平成29年(2017年)、55才で民進党を離党(後に除籍)しました。総理大臣の時に私を引き立ててくださった野田佳彦幹事長(当時)に離党届を渡した時には、切ない思いに苛まれました。
起死回生の新党設立!しかし、惨敗!
私の長年の政治理念のひとつであった二大政党制は、ついに挫折しました。心底、無念でした。
しかし、志は変わりません。再び政権の座につき、ますます混沌としつつあった国政の舵取りをせねばならないと思っていました。
そこで、別のアプローチを思案します。二大政党制が無理なら、それに代わる健全でバランスの取れた政治を実現すればいいのではないか、と。そして行き着いた結論は、政治理念を共有できる仲間たちと、新党を立ち上げること。政策ベースで、与党でも野党でも、柔軟に考え方の近い政党と協働する、つまり、ドイツのような連立組み換え方式でキャスティング・ボートを握り、自分たちの政策を実現していく政策集団です。
企てたならば、行動あるのみ。当時、「都民ファーストの会」で都議会を席巻していた小池百合子東京都知事と連携し、国政政党「希望の党」を結成します。当初は、国民やメディアの反応も悪くないと感じていました。そして、次の衆議院選挙は、もう目の前。これなら、膠着した日本の政界に風穴を開けられるかもしれない……!
ところが、そうは問屋が卸しませんでした。人生には、3つの坂があると言われています。上り坂、下り坂、そして、「まさか」です。まさかも、まさか。「ある瞬間」を境に、希望の党の支持率は急落。選挙の追い風どころか、大逆風です。しかし、体勢を立て直す間もなく、そのまま選挙に突入してしまいました。
有権者は、みていてくれた
そんな窮地にあって、私を全力で応援してくださったのは、地元の後援会の皆さまでした。
希望の党にとって、今回の衆議院選挙は大逆風。非難と批判の嵐でした。実際に私も、選挙が始まった時、大手メディアの当落予想では、落選でした。
しかし、大方の予想を裏切り、私は小選挙区で当選します。東京に25ある小選挙区のうち、希望の党から立候補した議員が勝ったのは、この選挙区だけでした。
選挙期間中、多くのお叱りもいただきましたが、それと同じくらい「がんばれ」「負けるな」と、励ましの言葉もいただきました。この選挙区で初めて立候補をしてから、17年。どんな状況にあろうと、野党の時も与党の時も、私は一貫して、有権者の皆様に自らの政治理念を訴え続けてきました。それを、本当に多くの方々が受け止めてくださっていたのだと思いました。
確かに私は、今回の挑戦には失敗しました。しかし、チャンスをいただいたのです。政治家として、このご期待に応えないわけにはいきません。
この翌年、希望の党は、あえなく解党します。そこから政界ではまた合流新党(今の立憲民主党)の話で賑わっていましたが、私は腹を括り、そこには参加せず、再び無所属に戻ります。
私を再び政界に押し上げてくださった後援会の皆さまの期待に、応えないといけない。それは、万年野党の政治家でいることではないはずだ。私には、やるべきことがあるのだ!!
[4]捲土重来 編 に続きます!
ー無所属から自民党入り、現在までー
自民党で、ゼロからの出直し!
私は、悩んでいました。(生き馬の目を抜くような権謀術数が渦巻く政界ですから、これまでも苦労の連続でしたが、今回の苦悩は半端ない……)
地元の皆さまに国会へ再び押し上げていただいたはいいものの、これから政治家として如何にあるべきか。
こういう時は、いつも原点に戻ります。そう、私は、単に政治家でいたいわけではありません。ますます混迷を極める激動の国際社会の中で、日本の外交安保をリードしなければいけない。その為に、苦悶しながらここまでやってきたのです。
無所属議員として、評論家のような活動ではだめだ。かといって、共産党と連立の色合いを深め万年野党への道を突き進む政党に戻るのも論外です。
だとすると、選択肢は実質的に唯一つ。政治を投げ出すという選択がありえない以上、自民党に入党してゼロからやり直すしかありません。これ以外に、自分の政治理念を貫く方法はありませんでした。
私は常々、「外交・安全保障には与党も野党もない」という信念でやってきました。なので、一議員として、以前から与野党問わずお付き合いをさせていただいてきました。誠に有難いことに、今回の私の境遇をみて、安倍晋三総理や菅官房長官など多くの自民党先輩議員が温かいお声を掛けてくださいました。
すでに国政6期です。これまで積み上げた実績を擲って、大所帯の自民党で一年生議員としてゼロから再スタートするのは、茨の道に違いありません。でも、熱心に支えてくださった後援会の皆さまのご期待に応えるためにも、ここは決断するしかありません。
しかし、私の頭を最も悩ませていたのは、自民党入党そのものではありません。そのこと自体、私の政治理念と矛盾しませんし、むしろ、これまでも私を知る多くの支援者から「長島さんは、なぜ自民党じゃないの?」と問われていたほどです。
本当に苦しかったのは、「国替え」です。
「私たちは、長島党」
自民党への入党の条件はたった一つ。それが「国替え」、すなわち選挙区の変更です。この時の私の選挙区(東京21区)には、自民党の現職議員がおられたからです。
浪人時代から20年近くも苦楽を共にし、育てていただき、そして、逆風吹き荒れる中でも私を支え続けていてくださった、21区の有権者、そして後援会の方々。この方々との別れは、想像するだけで胸が張り裂けそうでした。
でも、本当の意味で有権者の皆さまが私に寄せてくださった期待に応えるには、やはり、このまま万年野党に埋没してはいられません。国会議員としての本分である政策実現の為、恥を忍んで自民党へ鞍替えし、思い切ってゼロからやり直す覚悟を決めました。
そして、この決意を、今まで一緒にやってきた後援会の皆さまに真摯にお伝えすることにしました。急なお呼びかけでしたが、会場には、300名を超える方々が足を運んでくださいました。きっと、皆さまから怒りをぶつけられ、罵られ、詰め寄られるだろうと覚悟して臨みました。
ところが……
「野党の中に埋没し、言いたいことも言えない今のような長島さんでは、我々も応援し甲斐がない。だから、自民党に行ってでも国政で活躍して欲しい」
「長島さんが決めたことならみんなで応援しようよ」
「私たちは、野党の支持者じゃない。長島さんの支持者だ。そう、「長島党」だ!何党だって関係ない」
こんな声が、次々と上がりました。複雑な思いを抱えて参加した方もおられたかもしれません。でも、私の真意をご理解いただき、本当に温かく送り出してくださいました。所属政党や選挙区ではなく、政治家としての私に期待をかけてくださったのです。
この時ばかりは、涙を堪えきれませんでした。
その後、秘書たちと手分けして後援者のご自宅に貼っていただいたポスターを剥がしに伺ったのですが、玄関先で泣き崩れる方もいらっしゃり、それはそれは辛い別れになりました。
その先で待っていた、激動の運命
新天地は、東京18区(武蔵野市、小金井市、府中市)です。
初めての地域の方々との交流は緊張で震えるような思いでしたが、温かく迎え入れていただき、感謝に堪えません。地道に交流を積み重ねる中、旧選挙区に負けないような後援会を作っていけると、強い手応えを感じました。
しかし、この東京18区は、かつての上司である菅直人元首相が40年以上も鉄板の地盤を築いてきた選挙区です。その菅さんと、全面対決を迫られたのです。その東京18区を自民党本部から提示された時には、妻とともに天を仰ぎました。
昨日の敵は今日の友、そして、その逆もまた然り。あまりに過酷ですが、戦国時代の武将もこんな心持ちだったのかなと想像します。政治の世界は、まさに乱世そのものです。
そして、2021年に実施された運命の第49回衆議院総選挙。元総理が約半世紀もの間活動している地域での挑戦です。多くのメディアは、「長島劣勢」と予想しました。
しかし、私の変わらぬ想いに共感してくださった新選挙区の皆様、そして、選挙区は違っても、変わらず私を応援し続けてくれる「長島党」の仲間が連日連夜応援に駆けつけてくれました。我がチームの圧倒的な熱量が、地域に伝播していくのを肌で感じました。
その結果、メディアの予想を覆す大激戦となりました。菅さんの122,091票に対し、私は115,881票。惜敗率、実に94.91%……!あと一歩及びませんでしたが、比例代表で復活当選できました。私を信じてくれた有権者の皆様、そして、かけがえのない仲間に、心から感謝しています。
多くの方々から頂いた期待を背負い、7期目の議員生活が始まりました。自身の政治理念の実現に向けて全力投球するとともに、次回こそ、小選挙区で勝利せねばなりません。国会と地元を反復横跳びするような、大忙しながら充実した日々を駆け抜けました。
たどり着いた新天地
そんな時、またしても驚愕の知らせが舞い込んできます。それは、いわゆる「一票の格差」を是正する為の小選挙区の区割り変更でした……!
全国の選挙区が10増10減ということで、多摩地域も選挙区が一つ増えることになり、私の選挙区は真っ二つに分断されることに。
「筆舌に尽くし難い」という言葉がありますが、この時ばかりは、まさにそんな気持ちでした。政治家という職業は、なんともままならず残酷なものか、身に沁みます。
しかし、落ち込んでいる暇はありません。私には、やらねばならないことがあるからです。それは、どの選挙区であろうと、闘う相手が誰だろうと、変わりません。
私の新選挙区は、東京30区(府中市・多摩市・稲城市)です。
私は、仲間たち、そして、新しい選挙区で出会う方々と共に、挑戦し続けます。
「未来に誇れる日本」へ!
これまでの8期21年間の議員生活は、まさに激動でありました。二大政党制による競争の政治を夢見て野党からの挑戦、政権交代を実体験し政権の中枢で日本の外交安保の舵取りを担いました。その後、離党。無所属となり、考え抜いた末に保守新党の結党に挑戦しましたが、挫折しました。そして、ゼロからやり直す覚悟で自民党に入党し、日々活動をしています。
しかしこの間、私の政治理念が変わることはありませんでしたし、これからも変わりません。激しく揺れ動く国際政治の渦中で、現在、そして未来の日本国民の生命と平和な暮らしを守らねばなりません。その為には、冷徹な現実を直視し、将来を見据えて行動する覚悟と理念が必要です。私は、その為に、苦闘を重ねながらも研鑽を積んできました。私がやらずに誰がやるか、と自分に言い聞かせています。
そしてもうひとつ、地元の皆さまの声に真摯に向き合って気づかされたのは、こども政策の大切さです。現在、そして未来の日本人の生命と平和な暮らしのために汗をかいてきたつもりだったのに、足元の国内では、なんと多くの親子が筆舌に尽くし難い苦難に見舞われていることか……。
約10年前、児童養護施設の施設長さんから「国際関係も大事ですが、足元のこどもたちに何が起きているかにもっと関心を持って欲しい」とズバリご指摘いただいたのをきっかけに、自分なりに児童虐待対策や、親子の貧困対策など、こども政策にも力を尽くしてきました。世界一子育てしやすい国フィンランドにも足を運んで、「ネウボラ」という画期的な子育て支援制度を学んできました。
私はいま62歳です。政治家としては、まさに勝負どころです。「外交・安全保障」に「こどもたちの未来保障」。この最重要テーマを引き続き政策の両輪に据え、私の政治家としての使命を全うしていきたいと思っています。
未来に誇れる日本へ、あくなき挑戦はまだまだ続きます!